アイルランドへの誘(いざな)い

 アイルランド、スコットランド、ウェールズの国歌を検索してこのページへ来られた方は是非ここ(クリック)ご覧ください。FIFAワールドカップ2010ヨーロッパ予選を前に、これらの国歌を一括掲載してあります。
 
 また、19世紀半ばにアイルランドでおこったジャガイモ大飢饉を検索して来られた方は、他のページ、「飢饉、そして移民」の(序)(1)(♪Skibbereen)、(2)(♪The Fields of Athenry)、(3)(♪Lament of the Irish Emigrant)、(4)(♪Famine)も併せご覧いただければと思います。 
1.ジャガイモ大飢饉
 近代の一大悲劇
 2002年6月1日、新潟スタジアム(ビッグスワン)ではFIFAワールドカップ予選リーグEグループのアイルランド×カメルーン戦が行われ、私はテレビでその試合を観戦していました。すると、アイルランドサポーターから大きな歌声が聞こえてきました。
       ♪Low lie the fields of Athenry where once we watched the small free birds fly・・・・
 
 Fields Of Athenry(アセンライの野)だ。なんでこの歌が応援歌になるの? 作者がアイルランドチーム公式応援歌 Spirit Of The Gael(ゲールの意気) と同じ Pete St.John だから?
 歌っている連中、この歌の意味を知っているんだろうな。
 
 19世紀中頃、アイルランド近代史の中で決して忘れることのできない出来事がありました。
 アイルランドの主食であるジャガイモの胴枯病による大飢饉(The Great Famine)です。
 特に1845年のそれは最悪で、翌年にはジャガイモはほぼ全滅し、アイルランドの人々は食料を失うとともに、ジャガイモで生計を立てていた農民はたちどころに貧困に陥りました。
 もっとも、凶作だったのはジャガイモであり、小麦やトウモロコシは健在だったのです。しかし、当時アイルランドを支配していた英国は、十分な食料の手だても、貧困への配慮もせず、いわば野放し状態で、飢餓や熱病(腸チフス、回帰熱、赤痢等)で何万人もの人が死亡し、それまでも行われていた移民(特に北米への)にも拍車がかかりました。アイルランドは大混乱に陥ります。
 
 Fields Of Athenry は、そのような状況下で、トウモロコシを盗んだ罪でオーストラリアへの流刑に処せられるマイケルと、子供を抱えてアイルランドに取り残される妻メアリーの悲劇を歌ったものです。
 上記の歌詞に続く Our love was on the wing, we had dreams and songs to sing・・・には涙をそそられます。
 
 1997年、英国ではブレア政権が誕生し、ブレア首相は英国首相として初めて、この時の英国の政策についてアイルランド国民に謝罪しました。実に150年を経てのことです。その謝罪をきっかけに、北アイルランドではユニオニスト(英国との統合を望む派)とレパブリカン(独立派)の和平交渉が少しずつ前進しだすことになります。
 1916年のイースター蜂起とともに、ジャガイモ大飢饉はアイルランドの現代に連なる大きな出来事だったのです。
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 2.兵士の歌
アイルランド国歌
2月11日のブログでスコットランドの国歌のことを書きましたが、アイルランド共和国は独立国ですので、固有の国歌があります。(北アイルランドは未だに英国の支配下にあります。)
アイルランド国歌はAmhrán na bhFiann(兵士の歌)とよばれ、通常はアイルランドの第一公用語であるゲール語で歌われます。
 
スコットランドと同じように、アイルランドもずっと、英国(イングランド)の圧政に喘いでいました。
アイルランドの独立を勝ち取るため、1905年、アーサー・グリフィスはダブリンでシン・フェイン(Sinn Féin=We ourselves)党を打ち立てました。また、1913年にはアイルランドのナショナリスト(独立派)が「アイルランド義勇軍」を設立し、アイルランドを英国に留めようとするグループに対峙します。
1916年、アイルランド義勇軍と「アイルランド共和主義者同胞団(IRB)」はピアース(Pádraig Pearseに率いられ、ダブリンで武装蜂起を企てました。
    ★IRBは、1919年、アイルランド共和軍(IRA)と改名し、現在も、組織としてはシン・フェイン党の後ろ盾として残っています。
イースター蜂起(Easter Risingと呼ばれるこの反乱は結局失敗しますが、その後の英国の仕打ち(ほとんど満足な裁判もなまま次々に死刑に処した。)はアイリッシュの独立志向に火をつけます。
 
この蜂起の中で歌われた歌が「兵士の歌」で、アイルランドが「アイルランド自由国」として独立した後の1926年、この歌のコーラス部分が、それまで国歌として歌われていた「God Save Ireland」に代わる新国歌として認められ、現在に至っています。
ですから、アイルランド国歌もスコットランド国歌(The Flower Of Scotland)同様、反英思想を内在しています。
 
アイルランドやスコットランドの歴史を語る時、必ずといってよいほど、「反英闘争」に触れざるをえません。
しかし、アイルランドやスコットランドの音楽に関心を持つ私としては、そのような歴史の学習を避けて通ることができません。
また少しずつ書いていこうと思います。
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3.麦の穂を揺らす風
アイルランド近代史の恥部
現在、日本各地で、2006年カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作の麦の穂をゆらす風が上映されています。
この映画は、19世紀に ロバート・ドゥワイヤー・ジョイス によって書かれた「The Wind That Shakes The Barley」という詩の題名をそのままとって、映画の中でも奏でられます。                                                                                            ↑                                              
                                                  アイルランドの近代・現代史はイングランドへの抵抗の歴史でもありますが、この詩は18世紀末にアイルランドでおこった
                                                         「ユナイテッド・アイリッシュメン」による反英蜂起を歌ったものです。この曲は、現在でも歌い継がれています。
 
上記、「兵士の歌」で触れた1916年のイースター蜂起の失敗の後、アイルランドでは独立の機運が強まり、1921年に「アイルランド自由国」という形で一応の独立を成し遂げます。
しかし、対英条約を巡って、シン・フェイン党が分裂し、それは1922年のアイルランド内戦へと発展します。
1996年に作られた「マイケル・コリンズ」(ニール・ジョーダン監督/リーアム・ニーソン主演)という映画でも、この内戦を扱っています。
この内戦は多数の犠牲者を出したのですが、アイルランドの歴史教育の中では(アイルランド史における恥部として)多くは語られません。歴史教科書でもほとんど触れられていません。
 
麦の穂をゆらす風は、この内戦の中で、敵味方に分かれて闘わなければならなかった家族、友人の悲劇を描いたものです。
 
昨年11月から各地で公開され、私はどうしても都合がつかずこれまで見ていないのですが、今のところ4月までの上映予定が出ていますので、それこそ青春18きっぷを使い、どこかへ行ってこようと思っています。
残念ながら、今のところ新潟での上映はなさそうですが、隣県の富山では3月に上映される予定です。 
アイルランドに関心のある方、これからアイルランドを知ってみようと思っている方、上記ウェブサイトへリンクし、近くの映画館を探し、是非ご覧ください。
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4. ケヴィン・バリ
祖国に捧げた若い命
私は小さい頃から外国の民謡や伝統音楽が「なんとなく」好きで、アイルランドの音楽もその一つに過ぎなかったのですが、いつの間にかアイルランド、そしてスコットランドの歴史にも関心を持つようになりました。
振り返ってみると、ある一つの歌との出会いが私のアイルランドに対する好奇心をかき立てたと思うのです。
 
青年時代のある日、ふとしたことから、私はとても激しい内容のアイルランドの歌に出会いました。
「ケヴィン・バリ(Kevin Barry)」です。
 
In Mountjoy Gaol one Monday morning high upon the gallows tree            ある月曜の朝、マウントジョイ刑務所で絞首刑台に上り
Kevin Barry gave his young life for the cause of liberty             ケヴィン・バリは自由のために若い身を捧げた。
But a lad o’ eighteen summers and yet no one can deny            18歳の少年を誰も看過できない。
As he walked to death that morning he proudly held his head on high.   その朝、死へ向かって歩く時、彼は誇らしげに頭を上げていた。
 
ケヴィン・バリって何者だろう?
マウントジョイ刑務所って?
それまで、アイルランドの歌といえば庭の千草(Last Rose Of Summer)やデリー・エアー(Derry Air, Danny Boy)、子守り歌(Irish Lullaby)などが代表と思っていた私にとっては衝撃でした。
私の興味は、まだ行ったことのないアイルランドの歴史、そしてケルト文化へと入っていったのです。
 
1902年にダブリンで生まれたケヴィン・バリは、15歳の時、アイルランド義勇軍に加入し、ダブリン部隊第一大隊に所属します。
その後、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン医学部に入り、ラグビー選手にもなります。
1916年のイースター蜂起の後、アイルランドの独立機運が一気に高まったのは先にも書いた通りですが、英国は治安部隊を送り込み、その動きを封じようとしていました。
1920年9月20日、数人の同志とともにケヴィン・バリは英国軍を待ち伏せし、2名を射殺しますが、自分自身も受傷し、傷害、殺人罪で逮捕されます。
英国は国際的な非難の中で、反逆罪としての銃殺刑ではなく、一般の犯罪人と同様、絞首刑の判決を下しました。
同年11月1日に処刑後、刑務所内に埋葬され、家族の立ち入りも許可されませんでした。 その刑務所がMountjoy Gaolです。
写真の切手は、1970年に彼の死後50年を記念してアイルランドで発行されたものですが、2001年10月14日、他の9名とともに、国民葬として再埋葬されました。
 
1916年のイースター蜂起とそれに続く独立運動、その中でおこった出来事は現在に至るまで尾を引いているのです。
(1997年に英国がブレア政権になり、愛英関係あるいはスコットランドの情勢にも変化がおきてきますが、それについてはまた後日書きます。)
 
さっ、明日は反町ジャパン(U-22)のアメリカ戦です。              
早めに帰ってテレビを見なくちゃ。                 ヨーロッパ情報ランキング
ケヴィン・バリの死後50年を記念して発行された切手

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