ふるさとの歌(II)-ボスニア・ヘルツェゴビナ

ふるさとの歌(II)
(1)Kad Ja Pođoh Na Bembašu
オシムの故郷ボスニア・ヘルツェゴビナ
ふるさとの歌(II)は私らしくまずヨーロッパから始め、第1回はオシム(Ivica Osim)前サッカー日本代表監督の祖国、ボスニア・ヘルツェゴビナ(Bosna i Hercegovina)の音楽です。
(以下、年代は原則として「亀井高孝他編、吉川弘文館発行、世界史年表・地図」に従います。)
[初期のボスニア・ヘルツェゴビナ]
ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史は新石器時代にまで遡ることができると言われます。紀元前2~4世紀頃にはイリュリア人とケルト人とが混在していたと考えられますが、基本的にはイリュリア人の土地でした。紀元前1世紀になるとローマ帝国の支配下におかれました。
[中世のボスニア・ヘルツェゴビナ]
中世になるとスラブ人が入ってき、バルカンの各地に王国を作りました。そして1180年クリン(Kulin)総督がボスニア・ヘルツェゴビナをボスニア王国として統一しました。
クリンは外交関係も発展させ、この国に繁栄をもたらしましたが、1204年、クリンが死去すると国内は権力争いで混乱します。
一方、小アジアからはオスマン帝国がバルカン半島にも触手を伸ばし、1463年にはボスニアが、1482年にはヘルツェゴビナがオスマン帝国の支配下に落ちました。
オスマン帝国支配下のボスニア・ヘルツェゴビナではトルコ文化の影響を大きく受け、音楽にも東洋的な要素が組み込まれました。
[オーストリア・ハンガリー君主国への併合]
その後、オスマン帝国の力が落ち、1878年のベルリン列国会議でボスニア・ヘルツェゴビナの独立が認められましたが、すぐさまオーストリア-ハンガリー君主国が侵攻し、ボスニア・ヘルツェゴビナを占領してしまいました。そして、1909年10月、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言したのです。
一方、隣国セルビアでは大セルビア主義が台頭し、オーストリア・ハンガリー君主国と対峙していました。また、ボスニア・ヘルツェゴビナではゲルマン人国家であるオーストリア・ハンガリー君主国よりスラブ人国家であるセルビアへの併合を望む声が多くなっていました。
[第一次世界大戦とソ連邦の誕生]
そのような背景を元に、1914年6月28日、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サライェヴォ(Sarajevo)を訪れていたオーストリアのフランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand)皇太子を19歳のセルビア人ガヴリロ・プリンツィップ(Гаврило Принцип, Gavrilo Principがピストルで暗殺し、それが火種となって第一次世界大戦に発展しました。
第一次世界大戦は1918年10月にオーストリア・ハンガリー君主国が、11月にドイツ帝国が降伏し一段落しますが、この戦争のさ中、ロシアでは1917年にソビエト社会主義革命がおき、世界初の社会主義国が誕生しました。
[ユーゴスラビアの中のボスニア・ヘルツェゴビナ]
第一次世界大戦の後、バルカン半島ではセルビア・クロアチア・スロベニア王国ができ、ボスニア・ヘルツェゴビナもそれに組み込まれました。
この王国は1929年ユーゴスラビア王国へとつながりますが、第二次世界大戦が勃発すると、ナチスドイツの後ろ盾を受けたクロアチアがボスニア・ヘルツェゴビナに影響力を持ち、セルビア人とクロアチア人との間でいがみ合いがおき、ボスニア・ヘルツェゴビナではセルビア人への迫害が強まりました。
しかし、大戦は1945年、結局ナチスドイツの敗北に終わり、同年11月にはユーゴスラビア連邦人民共和国が設立され、その構成国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生しました。
[紛争から独立へ]
ユーゴスラビアはソ連邦と一線を画した社会主義国家として発展していきましたが、1980年代後半から旧東欧諸国で政治体制が崩れ始め、1989年に東西ドイツを隔てる「ベルリンの壁」が撤去され、更に1991年になるとユーゴスラビアでは独立を目指すクロアチアとそれを阻止しようとするセルビア等との間で内戦状態になりました。
1991年中にはソ連邦がなくなり、1992年、ユーゴスラビアは更に不安定になりました。そしてボスニア・ヘルツェゴビナでも内紛へと発展してしまいます。
国連の仲介でようやく落ち着いたのは1995年のことでした。
[暗殺者の評価]
尚、上で述べたオーストリア皇太子を暗殺したガヴリロ・プリンツィップに対する評価は歴史の中で変遷し、ボスニア・ヘルツェゴビナがセルビア等のスラブ系とつながりた強かった時代には記念博物館が建てられましたが、政権が代わるたびに破壊されたり再建されたりし、現在は破壊されたままになっています。
本来英雄の取り扱いを受けるべきであろうプリンツィップがセルビア人であるため、現在セルビアと緊張関係にあるボスニア・ヘルツェゴビナとしては受け入れがたいのであろうと思われます。
   
 サライェヴォの位置                                                              Por Pli da Kantado(名古屋
  Weltaltas(RV Verlag,ドイツ)に加筆                                                                               エスペラントセンター、1976)
                               
[ふるさとの歌]
ボスニア・ヘルツェゴビナの音楽は、東欧の中でもポーランドやチェコなどの北中部の国々のものと趣を異にし、オスマン帝国の影響を受け、やや東洋的なニュアンスも見られます。
今回ご紹介するのは1954年、カンヌ国際映画祭で国際賞と女優演技賞を受けた、ドイツ-ユーゴスラビア共同制作の最後の橋(Die Letzte Brücke)に使われたKad Ja Pođoh Na Bembašu(ベンバシャへ行ったとき)です。
この歌はボスニア・ヘルツェゴビナではよく知られている伝統歌で、様々なアーティストがレコーディングしています。サライェヴォでは市民歌として国歌と同じような扱いを受けているようです。
私はこの歌を最初にエスペラントで聞きました。それは上に写真で示したエスペラントの歌集(Por Pli da Kantado)に収載されています。
ユダヤの流れをくみ、それがオスマンの影響を受けたような響きを持っています。
日本のエスペランティストの中では比較的よく知られている曲です。
エスペラントでは Ekirinte Al Bembaŝa、あるいは Dum Mi Iris Al Bembaŝa などのタイトルが付けられています。後者が原題を逐語訳したものです。正しくはDum(~の間に)をKiam(~の時に)とすべきでしょうが、kiamだと2音節になってしまうため、dumにしたのでしょう。
原曲はボスニア語で書かれていますが、読み方や発音はそう難しくありませんのでYouTubeを参考に是非歌ってみてください。
参考までに日本語訳を付けておきます。エスペラント訳を参考にしました。
ロシア語をご存じの方は jaя)、naна) 、povedohповезти)、b’jeloбелыйdobro večeдобрый вечерなど、比較的親しみ易いのではないでしょうか。
Bembašaはサライェヴォにある地名(原名はBentbaša)です。
BembašuBembašankeBembaša が格変化したものであることは察せされると思います。
                 Kad ja pođoh na Bembašu
Kad ja pođoh na Bembašu,    ベンバシャへ行ったとき   
Na Bembašu, na vodu,           ベンバシャの池へ 
Ja povedoh b’jelo janje,          小さな白い羊を連れていき、
B’jelo janje sa sobom.            その小さな白い羊は私に着いてきた。
Sve djevojke Bembašanke      ベンバシャの女性は誰もが
Na kapiji stajahu,                    ドアのそばで立っていて、
Samo moja mila draga,             でもあの娘だけは
Na demirli pendžeru.                窓のそばの椅子に座っていた。
Ja joj nazvah dobro veče:         私はこんばんはと挨拶した
“Dobro veče, djevojče!”           「こんばんは、愛しい人!」
Ona meni: “Dođ’ do veče,          彼女は答えた「今日の夜
Dođ’ do veče, dilberče!”            今日の夜、私のところへ来て。」
Ja ne odoh isto veče         その夜に行かず
Već ja odoh sutradan.               翌日行った。
Ali moja mila draga                   でも、あの娘はもういってしまっていた
Za drugog se udala.                   ほかへ嫁いで。        
発音は大体ローマ字読みでよいのですが、はエスペラント、ドイツ語の 、英語の と同じです。
đ は英語 giantž はキリル文字で表すと ж で、英語 journey と類似の発音です。また č はキリル文字の ч 英語のch の発音です。
ちなみに tz に近い発音で、オシムさんの名は Iviča でなく Ivica ですので、イヴィチャというよりイヴィツァとすべきかもしれません。(まあ、外国語を日本語で発音することにそもそも無理があるので、本人が納得すればそれでいい話ですけど。)

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