ふるさとの歌(II)-フィリピン

ふるさとの歌(II)
(12)Leron Leron Sinta
7000余の島からなるフィリピン
 
ふるさとの歌(II)第12回はまたアジアへ来ました。大小7,000余りの島からなる国、フィリピン(Pilipinas,The Philippines)です。
 
[スペインの支配まで]
フィリピンが日本や欧米の歴史に登場するのはヨーロッパの探検家がその土地に訪れてからですが、実際にはもっと以前に人類が住み着いていたと考えられます。
フィリピンはアジアの一国ではありますが、文化的、歴史的にはむしろポリネシアに含めた方がよいのではないかと思われます。
紀元前のかなり早い時期からフィリピンにはマラヤ系の人たちが住んでいたようです。もちろん、今のように多くの島々を包括的に統治する「政府」は存在しませんでした。フィリピンという一つの国ではなく、島それぞれに秩序を作っていたと言えるでしょう。
 
時代は跳んで16世紀、1521年、ポルトガルのマゼラン(Fernão de Magalhães)セブ島にやってきました。マゼランはここに到着する前、近隣の島々で食料を強奪するなど力ずくで先住民を圧迫したと言われています。
その頃までに、イスラム教がフィリピンにも普及していたため、マゼランはセブ島を含む周辺の島の住民にキリスト教への改宗を強要しました。それは地域住民の反発を受け、争いになり、その中でマゼランは戦死しました。マゼランに打ち勝ったのはマクタン島の領主、ラプ・ラプ(Lapu-Lapu )で、フィリピンでは英雄扱いされています。
一方、スペインも東南アジアで勢力を強め、1571年にはマニラ市を建築しました。
その後、フィリピンはポルトガルではなく、スペインの統治を受けることになります。
 
[スペイン統治時代]
マゼランがフィリピンで討伐された頃から流入してきたスペイン人はフィリピンの諸島で勢力を広げ、ミンダナオ島、パラワン島等のいくつかを除き、フィリピンの多くを支配しました。
フィリピンではガレオン(Galleon)と呼ばれる一種の帆船が造られ、それを使って東南アジアや南米各国との貿易が盛んに行われました。
 
スペインの影響を大きく受けたフィリピンでは音楽にもその影響がみられ、リズムなどを聴くと、時として南米の音楽と間違えそうになることすらあります。
 
ヨーロッパの支配を受けた国の多くでみられるように、急激な資本主義の流れは地域においてヨーロッパの支配者と手を組んだ富農とその抑制下に置かれる小作人との関係が生まれ、階級対立を生み出します。
フィリピンも例外ではなく、それは民衆を中心とした独立運動につながりました。
独立の動きは長く継続されていましたが、顕著になったのは19世紀に入ってからで、特に医師で芸術家でもあるホセ・リサール(José Rizal)はスペイン留学から帰ってから独立運動を指揮しました。
彼は決してゲリラ活動を行うわけでなく、平和裏に独立を達成しようとしましたが、それは支配者であるスペイン人たちには受け入れてもらえず、19世紀の終わりに秘密結社が行動を開始すると、それはスペイン当局に反乱とういう口実を与え、リサールは裁判にかけられ、銃殺刑に処されてしまいました。1896年、リサール35歳の時でした。
一方、アメリカではカリブ海を巡り1898年米西戦争が勃発し、敵国スペインから独立しようとするフィリピンをアメリカが支援し、同年6月、フィリピンは共和国として独立しました。
 
[米領フィリピン]
フィリピンはアメリカの支援を受け一旦は独立したように見えましたが、1899年、パリ条約によりフィリピンはアメリカの統治を受けるようになりました。
これに反発したフィリピンの人々は多くの死者を出しながら抵抗を続け、1916年、ようやく自治権が認められるようになりました。アイルランドでイースター蜂起がおこった年です。
1934年、アメリカは10年後の独立を前提として、フィリピンを自治領としました。
しかし、その後、事態は大きく変動します。
フィリピンが独立に向けての準備をするめている中、1941年6月にドイツが旧ソ連邦を攻撃し、同年12月に日本がハワイの真珠湾を空爆し、世界は第二次世界大戦に突入しました。
日本は東南アジアを次々と侵略し、フィリピンへもその手を伸ばしました。1943年、日本はフィリピンを「独立」させますが、それは日本の傀儡政権にほかならず、1944年~1945年の連合国との戦闘で奪還されました。
  
日本統治時代にフィリピンで発行された切手
 
1945年の戦争終結後、フィリピンは一時的にアメリカに統治されましたが、1946年、フィリピン共和国として独立しました。
 
[近年のフィリピン]
独立後のフィリピンでは長期間マルコス(Ferdinand Edralin Marcos)政権の独裁が続きましたが、1986年、内乱でマルコスはアメリカへ亡命し、フィリピンは欧米型民主化の道を行くことになりました。
現在でも宗教対立を含む争いを内在し、必ずしも安定した状態にはありませんし、経済的にも豊かではありませんが、近代化の道を歩んでいます。
 
[レロン・レロン・シンタ]
フィリピンを代表する「童謡」と言えると思います。
日本へは1965年にNHKテレビの「みんなの歌」で紹介されました。
私はタガログ語あるいはその関連のフィリピノの言語についての知識が殆どありませんので、中山知子さんの詞をそのまま紹介します。
ただ、原詩の大意は「恋人(sinta)がパパイヤの木に登って自分にババイヤを取ってくれようとしたら、篭にたくさん入れ、枝が折れて落っこちてしまった。でも、その勇気が嬉しくて彼と一緒になろうと思った。」といったようなことだと思います。
   
みんなの歌、1965年6、7月
 
レロン レロン シンタ 中山知子作詞
 
レロン レロン シンタ パパイヤの木が
風に揺れて おいでおいで
レロン レロン シンタ あの木陰で
ギターにあわせ 鳥も歌う
 
レロン レロン シンタ ねむい波が
島の磯に 寄せてかえす
レロン レロン シンタ 船はすべる
ちぎれ雲も ゆっくりすべる
 
レロン レロン シンタ 赤い花は
村の道の ブーゲンビリア
レロン レロン シンタ どこにいても
忘れられぬ やさしい花
忘れられぬ やさいい花
 
 
Leron, Leron, Sinta
 
Leron, leron, sinta, Buko ng papaya,
Dala dala’y buslo Sisidlan ng sinta;
Pagdating sa dulo’y Nabali ang sanga,
Kapos kapalaran Humanap ng iba.

Halika na Neneng, tayo’y manampalok
Dalhin mo ang buslo, sisidlan ng hinog
Pagdating sa dulo’y uunda-undayog
Kumapit ka Neneng, baka ka mahulog.

Halika na Neneng at tayo’y magsimba
At iyong isuot ang baro mo’t saya
Ang baro mo’t sayang pagkaganda-ganda
Kay ganda ng kulay — berde, puti, pula.

Ako’y ibigin mo, lalaking matapang
Ang baril ko’y pito, ang sundang ko’y siyam
Ang lalakarin ko’y parte ng dinulang
Isang pinggang pansit ang aking kalaban
.

 
         
 YouTubeからはNora Aunorの歌です。

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