Ireland, Scotland,Celtic culture and Albirex Niigata

私の愛した街

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1972年1月30日
平和な市民運動に対する挑戦

== ミクシー(mixi)からこのページへ来られたみなさん、ようこそ。==

私自身はミクシーの会員ではありませんし、どのようなコミュニティーからお越しいただいたのかわかりませんが、このブログではアイルランドスコットランド、さらにもう少し幅を広げて世界の音楽を通し、その国や地域の文化に触れています。
特に中高生のみなさんを念頭に置き、できるだけ分かり易く書いているつもりです。
 私の愛した街は比較的アクセスの多いページですが、ここを紹介していただいたミクシー会員の方に感謝いたします。
ありがとうございました。
 また、私はサッカーJ1アルビレックス新潟のサポーターでもありますので、できるだけ多くの試合に行き、レポートしたいと思っています。
 これからも、このページに限らず北国の灯にぜひお立ち寄りください。
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 今から36年前の1972年1月30日、北アイルランドのデリー(Derry)*市内で公民権運動のデモ隊が行進していました。
武器を持つ者はなく、行進は平和裏に行われていました。
しかし、それを阻止しようとしていた英国のパラシュート連隊が突如銃撃を開始し、ある者は背後から撃たれ、十代の若者多数を含む14名が惨殺されました。
血の日曜日事件です。
            *デリーは英国統治下にある現在、多くの国では「ロンドン」の名を冠し、ロンドンデリー(Londonderry)と呼ばれています。
この後、北アイルランドは英国の直接統治の元に置かれ、その後の悲劇的な歴史を作っていくことになります。
血の日曜日と呼ばれる事件はアイルランドだけでなく、世界史の中で頻回に現れますが、1972年1月30日の血の日曜日は、今に直接つながる事件として特筆されます。
この事件の全容は今もって解決されていません。
英国のブレア前首相は1998年1月、再調査を開始すると発表しましたが、その結果は10年経った今もまだ出ていません。
この事件を扱った音楽としてU2の、まさにそのままのタイトル、Sunday Bloody Sundayが有名ですが、フィル・コウルターThe Town I Loved So Well (私の愛した街)も心を打つ曲です。
デリーで生まれ育ったフィル・コウルターが外へ出て、戻ってくると愛する街は焼き崩されていました。そんな故郷を見て作った曲です。
コウルターはデリーFCの会長であったこともありますし、また、そのクラブの熱烈なサポーターでもあります。
彼については、また機会を改めて書きたいと思います。
ここでご紹介するYouTubeダブリナーズの演奏によるもので、映し出される風景がこの曲の内容をほぼそのまま写し出しています。
  
「私の愛した街」第4節の最後のフレーズを見ると、they を you に置き換え、英国(ロンドン政府)に向かって叫びたくなります。
With your tanks and your guns Oh my God, what have you done to the town I loved so well
この曲は1970年代に歌手の横井久美子さんがアイルランドから運んできてくれたとされています。
私は10数年前、NHKラジオの英語講座で聞きました。
       The Town I Loved So Well                   私の愛した街
In my memory I will always see                         思い出の中にいつもある
  the town that I have loved so well                      私がずっと愛している街
Where our school played ball by the gasyard wall
                   ガス工場のそばでボール遊びをし
  and we laughed through the smoke and the smell            煙と臭いの中で笑っていた。
Going home in the rain, running up the dark lane
              雨の中、暗い路地を走り帰った
  past the gaol and down behind the fountain              刑務所の後ろ、給水塔の裏を通って
Those were happy days in so many, many ways
                                なにもかにも幸せだった日々
  in the town I loved so well                       私の愛した街で

In the early morning the shirt factory horn      早朝に鳴るシャツ工場の笛

  called women from Creggan, the Moor and the Bog          ヒースと沼地のクレガンから女性達を呼び
While the men on the dole played a mother’s role,
               失業手当の男達は母親の仕事をし

  fed the children and then trained the dogs              子供に食事を与え犬をしつけていた
And when times got tough there was just about enough,
           辛いけどそれで十分

  but they saw it through without complaining        何も不平を言わずに受け入れていた
For deep inside was a burning pride
                  胸の奥ではプライド一杯だったから

  in the town I loved so well                      私の愛した街で

There was music there in the Derry air          デリーには音楽があった

  like a language that we all could understand          みんなわかりあえる言葉のような音楽が
I remember the day that I earned my first pay
                 最初にお金をもらった日を覚えているよ
  when I played in a small pick-up band                                                       小さなバンドで演奏した時にだった
There I spent my youth and to tell you the truth,
               そこで青春を過ごし、本当言って、
  I was sad to leave it all behind me                 みんな残していくのは悲しかった
For I learned about life and I’d found a wife
              だって人生を学び妻と出会ったんだから
  in the town I loved so well                                                     私の愛した街で

But when I returned how my eyes they burned             でも、私が帰った時、目が焦げついた

  to see how a town could be brought to its knees                      街が蹂躙されている姿を見て
By the armoured cars and the bombed out bars
                        軍の車両と焼かれた酒場

  and the gas that hangs on to every breeze                           至るところ漂うガスで
Now the army’s installed by that old gasyard wall
                                    ガ ス工場には軍が投入され
  and the damned barbed wire gets higher and higher                     高く高く鉄条網が張り巡らされていた
With their tanks and their guns, oh my God, what have they done 
戦車と銃でヤツらは一体何をしたんだ 
  to the town I loved so well                                                            私の愛した街に

Now the music’s gone but they carry on,       今は音楽はなくなったけど、みんな前へ進んでいる

  for their spirit’s been bruised, never broken                               意気は燃え立ち、決して壊れないんだから       
They will ne’er forget but their hearts are set
               みんなは決して忘れず、そしてその心は

   on tomorrow and peace once again             明日とまた来る平和へ向かう
For what’s done is done and what’s won is won
             終わったことは終わったし、得るものは得た

   and what’s lost is lost and gone forever        そして失うものは失い、みんななくなった
I can only pray for a bright, brand new day
           私に出来ることは輝く新しい日を祈ることだけ

   in the town I loved so well                   私の愛した街で

ヨーロッパに関心のある方は ここ をどうぞ。

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“私の愛した街”. への2件のフィードバック

  1. Kocmoc Kocmaさん:
    コメントありがとうございます。
    すみません、ずっと気付かないでいました。
    確かに横井さんの訳はなかなかいいですよね。
    ボーカルでは、作者のフィル・コウルターの歌っているのが私は最も好きです。
     
    >昨今イランやロシアに向かって「人権」だの「民主主義」だの説教しがちのイギリスも・・・
    私は民族主義も人種差別主義も嫌いですが、英国(イングランド)がこれまで行ってきたことは、イスラエル建国等も含め嘘八百に思えて仕方ないんです。
    「イングランドは好きだけどイングリシュは嫌いだ」という人が結構いるようです。
    一般の英国人は地道で結構好感が持てるのですけど、政治になるとそうなのでしょうか?
    >新調査委員会の報告書は今年の夏ごろには出されるのではないかとのことです。
    でも、どんな結果が出されるのでしょう。
    もし、当局の「要人」が関与しているのであれば、結局はあいまいな文言ではぐらかされてしまう気がします。
     
    素朴な反権力の戦いに対する弾圧は、主義主張の違いを超えて、権力者のとる普遍的な手段なのかもしれません。
     
    私は短波放送を聴くのが趣味だった時代があり、Lietvos Telivizija Ir Radijasというヴィルニュスの放送局に受信報告をしたことがあります。
    そこから1984年に送られてきた受信証の図案には教会の絵が描かれていて、それは「私たちは決してソ連邦の一員ではない。」と言っているように感じられました。
    バルト3国には、いつも大国ロシアの影が横たわっていたと思われます。

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  2. Kocmoc Kocma のアバター
    Kocmoc Kocma

    ヒースさん、こんにちは。
    横井久美子さんの「私の愛した街」は聞いたことがあります。いい歌ですね。曲もいいし、横井さんの訳詞は親しみやすい言葉で心に残ります(「妻と知り合った」の部分が「夫を知った」になっていたりしますが)。
     
    ノーザン・アイルランド・フィルム・フェスティバル2008で血の日曜日事件についての映画を2本観てきました。映画祭、なかなか盛況でしたよ。「アイルランド弁当」(600円)も食してみました。
    私が観たのはドキュメンタリー映画の「デリー・ダイアリー~ブラディ・サンデーのその後」と再現ドラマの「ブラディ・サンデー」。
    昨今イランやロシアに向かって「人権」だの「民主主義」だの説教しがちのイギリスも、ほんの30年前には丸腰の市民に無差別発砲していたわけですね・・・ということよりも、発砲した軍隊関係者が結局誰も処罰されなかったこと、作戦を指揮した将校たちが後に女王によって叙勲されていることが何ともやりきれない思いに陥らせます。
    マーゴ・ハーキン監督(そのとき行進に参加していて負傷者の一人でもある)によれば、新調査委員会の報告書は今年の夏ごろには出されるのではないかとのことです。今度こそ真実に迫るものになっていて欲しいですね。
     
    血の日曜日事件というと、一番有名なのは1905年1月9日のペテルブルクの事件でしょうね。ショスタコーヴィチの交響曲にもなっているあれです。
    1991年のビリニュスの事件はリアルタイムで覚えています。94年にビリニュスに行ったとき、その時の犠牲者を記念する十字架の丘に行ったところ、「Лорета, извини!(ロレッタ、許してくれ!)」とロシア語で書かれた十字架がありました。
     
    ペテルブルク・ビリニュス・デリー。皆1月の日曜日なのですね。

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